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講座テーマ 「経営の道」 「人の道」

2012.09.08



香川県高松南倫理法人会
モーニングセミナー400回記念講演会

内 容 要 約 

講座テーマ 「経営の道」 「人の道」

開催日時  2012年9月13 日(木) 6:00?7:00
開催場所  田村神社会館
講師 松下電器産業? 元副社長/阪神高速道路株式会社 前会長 田中 宰氏 

はじめに

 私は昭和38年に松下電器に入社し、一年半前に副社長を退任するまで42年間、お世話になった。経営が成功するか失敗するか、必ずその分水嶺がある。これが経営のコツではないかと思う。失敗は大半が人災で、成功は人間としての力がそこに働いている。経営の道は人の道ではないか。私が入社した時、敬愛する創業者の松下幸之助は68歳で、現職を退いていたが、陰に陽にいろいろな事を教わった。幸之助との出会い、幸之助の思想から学んだことをお話させていただく。

〔1〕経営理念を確立させること

  ? 使命を知る、企業は公器、会社は社会からの預かりもの ?

 私が入社して衝撃的だったのは、毎朝、松下電器の綱領、信条、七精神を朗読させられたこと。もっとショックだったのはゴールデンウイークの5月5日の創業記念式典に出勤して、綱領などを朗読させられたこと。当時、私はこれにレジスタンスを感じていたが、これが私のサラリーマン生活のすべてを支えてくれた精神の原型になった。

 昭和7年、松下幸之助はある宗教団体の本部を訪問、喜々として働く信者の奉仕の姿を見て大きな感銘を受け、事業経営について深く考えることになる。宗教は人々の悩みを救い、人生に幸福をもたらす聖なる事業である。一方、事業経営も人間生活に必要な物資を生産し、提供し続ける、これまた聖なる事業ではないかと思うようになった。われわれ生産人もその崇高さにおいて宗教人と劣らない。これこそが、松下電器が存在し続ける真の使命ではないか。そのことを社員に強調した。

 昭和46年、私は30歳で岡山の販売会社の社長に最年少で就任した時、この経営理念の大事さを痛感した。最近、企業の不祥事が続いている。どの会社にも経営理念はあるはずだが、その理念を失った時、どんな大きな企業も一瞬にしてつぶれる。

〔2〕人をつくること

  ? 商品をつくる前に人をつくる ?

 昭和38年に入社した私は本社経理部の配属を言い渡された。営業マンを目指していた私はこれを断った。日本全国の家庭に電化製品のある豊かな生活を提供したいという気持ちが強かったからだ。もちろん、私の希望は門前払い。しかし、3度目のお願いで、私は山陰の出張所へ行くことになり、立派な営業マンになって会社にお返しをしようと心に誓った。一介の新入社員の希望が受け入れられたのは、人事の責任者に「商品をつくる前に人をつくる」という松下幸之助の思想が浸透していたからだと思う。

 松下電器は昭和40年、週休二日制を取り入れた。欧米との競争に勝ち抜くためには、生産性を上げねばならないという松下幸之助の考えからだった。そのためには一日休養し、一日教養をとる。従業員にこれを与えないと、必ず欧米との競争には勝てないと…。

 昭和39年の東京オリンピックが終わったあと、日本は深刻な不況に見舞われた。松下電器も大リストラをしなければならない状態だった。松下幸之助は代理店との会議で、松下電器の改革を宣言。それまでの手形から現金取引に変え、現金のない人にはクレジット制度を設けた。そんななかでの週休2日制の導入。松下幸之助は、人間人事な経営と経営人事な経営と全く二律背反のテーマを同時に実現させようとした。会社がつぶれようとした時に人をつくる、商品をつくる前に人をつくるーを実践した。

〔3〕人間観を持つこと

  ? すべてに学ぶ、感謝の念、愛される ?

 改革に乗り出した松下幸之助は、営業本部長が病欠したこともあって、会長の肩書きのまま、営業本部長に就任し、全国の販売店を回った。私は山陰出張所にいた。販売店の大会出席のため米子に来られた時、一人の仲居さんから「一人息子が就職で米子を離れることになった。もし、米子に松下の工場があれば、親子水入らずの生活ができたのに…」という話を聞いて工場建設を決意、48都道府県すべてに工場ができるきっかけとなった。すべてに学ぶ、つまり仲居さんから学んだ例だ。

 感謝の念では、こういう話がある。米子に来られたその夜の9時ごろ、松下幸之助の秘書から「創業者が週刊誌を読みたい、と言ってる」といわれ、皆生温泉まで足を運び、何とか2,3冊用立てた。翌朝、幸之助直々に「田中くん、ありがとう」と感謝された。また、大会で出番を待つ間、事務服のままの女子社員からお茶をもらい、「ありがとう」と礼をいわれた。

 大会が終わって、米子空港に販売店の奥様たちが見送りに来たことに、松下幸之助は感激。一人一人の手を両手で握って「ありがとうございました」と感謝した。ビジネスマンとして一番大事な心がけは人に愛されること。人間観とは愛されることだ。

〔4〕素直な心になること

     ? 私心にとらわれない、寛容、融通無碍、愛嬌 ?

 私は30歳で販売会社の社長になったが、組合員なので残業賃もつける。販売会社の社長は夜も働くし、土、日も出勤する。給料が倍以上に上がった。これは大変だと、会社は思ったのだろう。すぐ昇進させて課長になった。試験で昇格させるのではなく、場で昇格させる。そんな寛容さがあった。

 昭和55年、40歳の時、松下幸之助はエアコンを家電に移すと言い出した。そんなことをされると販売会社はつぶれてしまう。私たちは猛反対し、松下幸之助を引っ張り出し、抗議した。幸之助は壇上で深々と頭を下げ、白紙に戻した。そこに素直さを感じた。素直な心は、私心にとらわれない、寛容、融通無碍、そして愛嬌がいる。

 私の尊敬するPHPの当時の常務が、人材育成のコースで指導者の条件というテーマで講義することになり、条件を10に絞って松下幸之助に見せたところ「一つだけ欠けている。それは愛嬌」といわれた。愛嬌―すなわち人間的魅力である。

〔5〕お客様第一であること

     ― 峠に茶屋あり、おばあさんに学ぶ ?

 いつか読んだ本につぎのようなことが載っていた。人里離れたある峠の茶店におばあさんがいて、山越えする旅人のためにどんな時でも店をあけ、みんなに感謝された。儲けということを越えた商売の尊さと喜び。そこに学ぶところが極めて多いと思う。

松下幸之助は全国の工場を回った。ある営業所に行った時、営業所長から報告を受けていたため、販売店大会の会場入りが少々遅れた。「お客さんを待たせるとは何事か」と怒り、その営業所長を左遷した。

〔6〕ことごとく生成発展と考えること

? 志の高さ、強く願う、真剣勝負 ?
  幸之助が「松下政経塾」を設立したのは昭和55年、85歳の時。神奈川県茅ヶ崎に70億円の私財を投じて作った。「このままでは日本はだめになってしまう。政治を変え、新しい国を作らねば…」という憂国の思いからだった。難局打開へ指導者の育成に立ち上がった。

 ここの卒塾生は現在、国会議員30名、知事、市長、都議会議員を含めると65名にもなる。幸之助は私財だけでなく、人命も投げ打った。また、中国の登小平から中国進出の依頼を受け、北京に工場をつくり、大成功を収めた。天安門事件で日本企業が引き揚げるなか、松下電器はそのまま居座り、中国国民の評価を高めた。

〔7〕時代の変化に対応すること

? 日に新た、不易流行 ?
  私の最も苦い経験は平成13年、4300億円を超える赤字を出し、社長に命じられ大リストラを敢行した時。5000名を超えるリストラ、工場閉鎖、取引先のオーナー退陣要求、賃金、賞与のカット、早期退職勧告…。なぜ、こんな事態を招いたか。真因は私たち経営陣にあったと思う。一つだけ欠落していたのは「日々新た」ということ。正しい経営理念を持つと同時に、それに基づく具体的な方針、方策が、その時々にふさわしい「日々新た」なものでなくてはならない。そのことをいやというほど思い知らされた。

〔8〕青春とは心の若さである

 ― 人間、今日全、天下 ?
  私は確たる信条を持っていないが、強いていえば、「人間」「今日全」「天下」の三つの言葉に強く魅せられ日々を送っている。「人間」は人と人との間と書く。人生を大事にするとは、自分、そして関わりのある人たちを大事にすること。「今日全」は「今」をいかに大事にして精一杯生きるか。それができる人が「人生の達人」でもある。「天下」はお天道様に「貴方に恥じない生き方をしている」と答えられる人のこと。幸之助は私たちにこんな言葉を残している。「青春とは心の若さである。信念と希望にあふれ、勇気にみちて日に新たな活動をつづけるかぎり、青春は永遠にその人のものである」幸之助はこの心をもって94歳の生涯を全うした。