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バスと赤ちゃん

2012.11.25

 東京にいた今から十六年程前の十二月も半ば過ぎた頃のことです。私は体調を壊し、週二回、中野坂上の病院に通院していました。

 その日は今にも雪が降り出しそうな空で、とても寒い日でした。昼近くになって、病院の診察を終え、バス停からいつものようにバスに乗りました。バスは座る席はなく、私は前方の乗降口の反対側に立っていました。車内は暖房が効いていて、外の寒さを忘れるほどでした。
 間もなくバスは東京医科大学前に着き、そこでは多分、病院からの帰りでしょう、どっと多く人が乗り、あっという間に満員になってしまいました。
 立ち並ぶ人の熱気と暖房とで、先ほどの心地よさは一度になくなってしまいました。バスが静かに走り出した時、後方から赤ちゃんの、火のついたような泣き声が聞こえました。私には見えませんでしたが、ギュウギュウ詰めのバスと、人の熱気と暖房とで、小さな赤ちゃんにとっては苦しく、泣く以外方法がなかったのだと思えました。
 泣き叫ぶ赤ちゃんを乗せて、バスは新宿に向かい走っていました。バスが次のバス停に着いた時、何人かが降り始めました。最後の人が降りる時、後方から、「待ってください。降ります。」と、若い女の人の声が聞こえました。その人は立っている人の間をかきわけるように前の方に進んできます。その時、私は、子供の泣き声がだんだん近づいて来ることで、泣いた赤ちゃんを抱いているお母さんだな、と分かりました。そのお母さんが、運転手さんの横まで行き、お金を払おうとしますと、運転手さんは「目的地はここですか?」と聞いています。その女性は気の毒そうに小さな声で「新宿駅まで行きたいのですが、子供が泣くので、ここで降ります。」と答えました。
 すると運転手さんは「ここから新宿駅まで歩いてゆくのは大変です。目的地まで乗って行って下さい。」と、その女性に話しました。

 そして、急にマイクのスイッチを入れたかと思うと、「皆さん この若いお母さんは新宿まで行くのですが、赤ちゃんが泣いて皆さんにご迷惑がかかるので、ここで降りると言っています。子供は小さい時は、泣きます。赤ちゃんは泣くのが仕事です。どうぞ皆さん、少しの時間、赤ちゃんとお母さんを一緒に乗せて行って下さい。」と、言いました。私はどしていいか分からず、多分皆もそうだったと思います。ほんの数秒かが過ぎた時、一人の拍手につられて、バスの乗客全員の拍手が返事となったのです。若いお母さんは、何度も何度も頭を下げていました。

 今でもこの光景を思い出しますと、目頭が熱くなり、ジーンときます。私のとても大切な、こころにしみる思い出です。